「玉葉」は関白九条兼実 の日記です。
寿永2年(1183年)11月6日条
「能保悪禅師の家に宿すと云々。頼朝の居を去ること一町許りと云々」
訳:一条能保(頼朝の姉妹の夫)が悪禅師の家に宿泊。(鎌倉の)頼朝の家から1.2キロのところ。
<さとし私見大事なこと>
すでに当時「悪禅師」の通り名でしられているということです。
つまり、1183年(30歳)より前に悪禅師たらしめる「実績がある」人物ということになります。
先の市河文書とあわせると、当時は源義経よりも、阿野全成のほうが有名人で、
「悪禅師」の名だけで「仕事」ができたと考えられます。