阿野全成とは何者か「考古学の阿野全成」 その5 2022年6月16日編集

<鎌倉時代の考古学>
沼津井出で鎌倉時代の考古学的な発掘はほとんどない。
大泉寺でも阿野全成ゆかりの当時の品はない。

<阿野全成死後の阿野荘(浮島)>
●鎌倉時代:
次男頼高居住⇒四男時元の子孫が継承
●鎌倉時代末期:
1333年、足利尊氏の長男竹若丸が浮島ケ原で処刑
●戦国時代
1487年北条早雲が興国寺城をつくる

<さとし私見大事なこと>
「なぜ阿野全成の時代の考古学的発見がないか」
答え「地域が現役で動いていたからリサイクルされた」

よく勘違いされるのですが、
「京都へいけば平安時代を楽しめる」と考えがちです。

しかし、実は
「平安時代を楽しもうと考えたら、岩手県平泉へ」です。
全成の弟、義経が最後の時を迎えたところです。

平安時代の遺跡として有名なのは平泉、京都ではありません。

「なぜ岩手県平泉が世界遺産になったのか」
答え「千年の都があった平安時代の史跡がそのまま残っているから」

義経がうたれたあと、奥州藤原氏滅亡しました。
そのまま廃墟になったため、田園地帯になって埋もれてしまいました。
そのため、当時の都がそのまま残ったのです。

一方、「阿野館」は現役で活動する「フィールド」でした。

阿野荘(浮島)のランドマークである興国寺城は、
戦国時代の初期の史跡ですが、
北条早雲が興国寺城入りした時に、すでに街道があり、寺院があり、市がありました。

阿野荘、大泉寺周辺は地政学的に重要な拠点だったといえます。

平泉については、藤島亥治郎・藤島幸彦氏の研究を紹介します。
ちなみにさとしは早稲田大学時代に、
藤島幸彦先生に平泉・町家の研究を教えていただきました。

今でいうメディアミックスの手法で平泉を紹介するという「課題」が
阿野全成研究に生かされております…。

 

阿野全成とは何者か「歴史学・物語の阿野全成」 その4 2022年6月16日編集

<物語の阿野全成>
●平治物語(1246)阿野全成没後43年
●平家物語(1240)阿野全成没後37年
●源平盛衰記(1240年以後)阿野全成没後37年
●義経記(1338年以後)阿野全成没後135年

<歴史書の阿野全成>
●吾妻鏡(1304) 阿野全成没後約100年編纂
● ⇒北条礼賛の記事になっている、記述の矛盾あり
●尊卑分脈(1395)阿野全成没後約200年編纂

「義円(乙若丸)の記述が混乱した形跡あり」
<論文>
『尊卑分脈』近似室町後期写清和源氏系図について
佐々木紀一 著 · 2017

<さとし私見大事なこと>
物語のほうが先に成立しています。
それでも没後50年近くの年月がたっています。

有名な吾妻鏡はほぼ100年後で、
系譜で有名な尊卑分脈は200年後、
物語を下敷きにしている可能性もあります。

物語には醍醐寺で修業し、悪禅師とよばれた以上のことは書いておりません。

彼の歴史が曲筆されている可能性が高いです。

阿野全成とは何者か「玉葉」 その3 2022年6月14日編集

「玉葉」は関白九条兼実 の日記です。

寿永2年(1183年)11月6日条

「能保悪禅師の家に宿すと云々。頼朝の居を去ること一町許りと云々」

訳:一条能保(頼朝の姉妹の夫)が悪禅師の家に宿泊。(鎌倉の)頼朝の家から1.2キロのところ。

<さとし私見大事なこと>

すでに当時「悪禅師」の通り名でしられているということです。

つまり、1183年(30歳)より前に悪禅師たらしめる「実績がある」人物ということになります。

先の市河文書とあわせると、当時は源義経よりも、阿野全成のほうが有名人で、
「悪禅師」の名だけで「仕事」ができたと考えられます。

阿野全成とは何者か「市河文書」 その2 2022年6月14日編集

「悪禅師」は当時の資料にでてきます。

「市河文書」本間美術館所蔵

信濃国市河氏の武家文書には

寿永2年(1183)12月7日、木曽義仲なきあとも支配権を安堵するという内容の阿野全成の手紙 があります。

「悪禅師」でサインされており、悪禅師=阿野全成しかいないため、当時の彼のものと推察されています。

※諸説あります※

2022年6月14日記載

<市河文書とは>

市河文書 | 長野県立歴史館

https://www.npmh.net/ichikawa/

市河家文書 出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%82%E6%B2%B3%E5%AE%B6%E6%96%87%E6%9B%B8

国会図書館ライブラリ

https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2607717

<論文>

市河文書﹂註釈稿 1

信州大学機関リポジトリ
牛山 佳幸

「信州大学機関リポジトリ 市河文書 悪禅師」で検索

 

阿野全成とは何者か 「ライフヒストリー」 その1 2022年6月14日編集

一般的に物語などで語られるライフヒストリーは以下のようになります。

1153年(1歳)誕生。源義朝の七男、常盤御前の長男

1159年(7歳)平治の乱始まる

1160年(8歳)源義朝がなくなる

1160年(8歳)醍醐寺へ

1170年(18歳)得度する

1180年(28歳)石橋山の戦いで兄源頼朝と会う

1180年(28歳)武蔵国長尾寺を与えられる

1181年以後(29歳)、阿波局と結婚し、阿野荘へ

1185年(33歳)壇ノ浦の戦いで平家滅亡

1189年(37歳)衣川の戦いで源義経討死

1192年(40歳)阿波局が源実朝の乳母となる

1193年(41歳)伊豆修善寺で源範頼討死

1199年(47歳)源頼朝死去

1200年(48歳)梶原景時追放および討死

1203年(51歳)頼家の命で処刑される